デバイス開発ヒストリー
高速電子デバイス(1)~ハイブリッドICの開発~
今回からはアンリツの高速電子デバイス製品開発ストーリーを掲載いたします。
ハイブリッドIC
IC/LSIと聞くと一般的にはパーソナルコンピュータやスマートフォンに使用されるCPUやメモリ類をイメージされる方が多いと思います。これらの集積回路は半導体基板上にモノリシックで回路を構成し、集積規模と生産量が非常に大きくなります。これとは対照的に特定の電子機器の一部回路を集積化したハイブリッドICがあります。集積規模が小さいため開発期間が短く、絶縁基板上に抵抗、コンデンサ類や電子部品等を積載し1ユニットにモジュール化ができます。多品種少量生産に向いており、小型で高密度実装、特性の最適化、実装工数や調整工数低減、および品質向上が期待できます。モノリシックICでは困難とされる高精度、高周波数、高耐圧、大電力を要求する分野にも対応できます。形成する膜部品の厚さにより薄膜ハイブリッドICと厚膜ハイブリッドICに分類されます。
1. 厚膜ハイブリッドIC
セラミック基板上にスクリーン印刷技術により導体や抵抗体を作成し、高温焼成した後トランジスタやICなどの能動部品を搭載します。安定で特性が揃った抵抗膜が得られ、レーザトリミングにより微調整することもできます。
当社では研究部門において1968年に技術導入の検討を開始し、1970年にはパイロットプラントが完成しました。まず厚膜同軸抵抗減衰素子の量産を試み、高精度で安定な抵抗膜の作成及び、パターン作成技術を習得したのが厚膜ハイブリッドICの始まりです。1970年のテレコン用発振器と同期回路、1975年の船舶通信機用ハイブリッドICなどを開発し社内ニーズに貢献、翌1976年には社外向けに販売開始をしました。多層基板や両面実装化による小型化も実現するとともに、半導体や周辺回路の特性ばらつきを吸収するファンクショントリミングを導入して機器の無調整化、高精度化も実現しました。PCなど無い時代ですから、回路図からパーツのレイアウトを紙図面で作成、トレースといった作業には時間がかかりました。製造に関しても小さな電子部品をピンセットで1つずつ並べていかねばならず、かなりの根気が必要な作業でした。社内の計測器類への採用が増えるに伴って生産規模が次第に増え、一時は国内のグループ会社で量産するなど一定の規模に達したため、1995年に光デバイス部門と共にデバイス事業発足に至りました。
その後プリント基板の実装密度も上がり、秘密保持など特殊用途向けを除けば厚膜ハイブリッドIC製品に対する必要性は低下しました。当社でも装置老朽化や需要低下に伴い、自社生産から外注化に切り替えました。2000年頃には高精度で高周波対応に適した薄膜製品にリソースを統合し、厚膜製品の製造販売は終了しました。
2. 薄膜ハイブリッドIC
フォトマスクにより回路パターンを作成したセラミック基板上に、真空蒸着やスパッタリングで製膜することにより導体や抵抗体膜を形成した後、能動部品等を搭載します。MMIC*類はベアチップが使用されることも多く、金ワイヤで配線されます。最短距離で配線可能で微細かつ精密なパターン形成が可能なことから、高周波回路に向いています。薄膜品は厚膜品に比べて設備投資が大きくなる傾向にありますが、精度や特性の点で優れています。
*MMIC:モノリシックマイクロ波集積回路。微細加工により半導体基板上にマイクロ波回路を集約した集積回路。
当社ではマイクロ波測定器用導波管に使用する抵抗減衰器を社内で製造することに端を発します。マイカ基板上に蒸着したニクロム合金膜で試作を始め、1972年同軸型アッテネータ素子で製造開始、1973年フリケンシカウンタ用1 GHzアンプ、1975年2 Gbit/sパルスパターン発生器に採用されました。1979年AT&T向けのマイクロ波通信機(MRTS)に11種類の薄膜ハイブリッドICが搭載されました。優れた高周波特性により高周波計測器のキーデバイスとしての地位を確立しました。現在でも販売されているシグナルクオリティ アナライザやBERTWaveなど搭載機種は増え続けています。通常、計測器1機種につき複数のICが使用され、生産数量は年々増え続けています。自動機がない当時、製造工程はすべてマニュアル作業でした。上図のようにICチップやパッケージとは金ワイヤやリボンで配線されますが配線の仕方で特性が変化するうえ本数が多いため、繊細な作業で熟練した作業者が必要です。このほかにも各工程で職人芸が必要で、高周波製品は工業製品というより工芸品に近い製品と感じることもあります。製造を担当していたグループ会社では一時リレーや厚膜・薄膜ハイブリッドICなどデバイスの主力工場としてフル稼働しました。最盛期はトラブルのたびに担当者や装置、部品類が厚木と工場を行き来するなど大変であったことなどもあり、最終的には厚木本社にリソースを集約しました。